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矢沢永吉
矢沢永吉(やざわ えいきち、1949年9月14日 - )は広島県出身の「ロックアーティスト」。
人物
元''キャロル (バンド)|キャロル''のメンバー。血液型はB型。愛称は「永ちゃん」「ボス」。ロゴマークは「E.YAZAWA」。他者を寄せ付けない極められた貫禄、ずば抜けた実績、唯一無二の影響力から、日本のロック界を代表するカリスマ、ビッグスターとしてよく紹介される。50歳を超えた今もその絶大な人気は揺るぐことなく、独創性は衰えを知らない。シンガーソングライターであるが作詞はほとんどせず、他のアーティストに楽曲を提供したこともほとんどない。俳優として映画やドラマの主役を務めたこともある。CM出演も多数にのぼる。また、プロデューサーとして自身の多くのアルバムを手がけてきた。コンサートの興行や演出なども自身の会社が行い、自らが全体を取り仕切る。デビューから30年以上を経過しているが、今でも熱狂的なファンを多数擁している。日本ではかねてより50代のロック歌手は存在せず、矢沢が初めてのアーティストとなった。自身もその事を意識しており、誰も到達していない未知の領域に対する挑戦が、新たな記録とファンを生んでいる。2006年現在、楽曲数300曲・ライブ総数1500本・総動員数500万人を超える。オリコンアルバムランキングベスト10入り最多記録(46作)と日本武道館最多公演記録(92回)を更新中。
経歴
キャロル結成まで
家庭的には恵まれた環境ではなかった。実母が家を出て実父は原爆後遺症で早逝した為、幼少期は親戚をたらい回しにされ、その後は祖母に育てられ極貧の少年時代を過ごした。中学時代ラジオから流れるビートルズを聞いてロックに目覚める。広島国際学院高等学校|広島国際学院高校から広島市立広島工業高等学校|広島市立工業高校定時制に転入。1968年、高校卒業と同時に広島市|広島から、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を握り締めて最終の夜行で上京。が横浜市|横浜で途中下車。横浜中華街|チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。横浜、横須賀市|横須賀、川崎市|川崎などのライブハウスやキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。自作の曲『アイ・ラブ・ユー、OK』のテープをレコード会社(東芝EMI)に持ち込んだが、売れないと社員に酷評される。東芝EMIを選んだ理由は、「ビートルズのレコード出してるから」。「ザ・ベース」「イーセット」「ヤマト」といったいくつかのバンドを経て、矢沢が張り紙チラシで募集をかけ1972年、ジョニー大倉・内海利勝・ユウ岡崎らとロックバンド''キャロル (バンド)|キャロル''を結成。ボーカルおよびベースギターを担当。キャロルはデビュー時、内田裕也のレーベルとミッキー・カーチスのレーベルの二者から誘いを受けたが、キャロルは内田に侘びをいれ、ミッキーを選んだ。しかしこの際、金銭的にキャロル側に著しく不利な契約を長期で結んでしまったため、後にキャロルはミッキーとも袂を分かつことになる。ミッキー・カーチスのプロデュースにより日本フォノグラム (フィリップスレーベル、現在のユニバーサルミュージック) からシングル『ルイジアンナ』でデビュー(フジテレビジョン|フジテレビ「リブヤング」)。革ジャンにリーゼント、ロックン・ロールというスタイルでいわゆる芸能界以外から登場し、当時のフォークソング一辺倒だった音楽シーンに衝撃を与えた。キャロル出現のインパクトは絶大で、以降の国内ロックアーティストの多くがリスペクトしている。1974年3月には、パリで行われた山本寛斎のショーにキャロルが出演し、『ルイジアンナ』『ヘイ・タクシー』『憎いあの娘』を演奏している。
妻との出会いと結婚
キャロルの前身「ヤマト」のライブに来ていた女性と店で会った時、矢沢がキャンディにコーラをつけて舐めていると、その女性が同じ動作をしたため一気に打ち解けた。女性に演奏していたレコード番号を問われた矢沢は「無いよ。だってあれ俺の曲だもん」と答えた。その女性こそ、後に妻となる人であった。問われた自作の曲は『アイ・ラブ・ユー、OK』。キャロル全盛期、矢沢は結婚しており風呂なしのアパートに住んでいたため、まだ小さな長男をおぶって近所の銭湯に出かけていたが、誰もスターの矢沢がいるとは思っていなかった。
キャロル解散・ソロ活動へ
解散に至るまでの様々な葛藤は後述の矢沢の自著に詳しい。
キャロルの活動は2年あまりで終わりを迎えることになり、所属会社の要請で解散ライブを行うこととなった。このライブは1975年4月13日日比谷野外音楽堂において行われた。演出の為使用した爆竹が舞台セットに燃え移りステージが炎上するというアクシデントの中キャロルは解散した。キャロルの解散が決定的な空気になった頃、矢沢はソロ活動を行う際に前レーベルとの間に起こり得る問題を未然に防ぐため、単身CBSソニーに行き幹部と面会し、自らのソロ活動を担保とした金銭面・ビジネス面の話をまとめている。矢沢との面会後、CBSソニーは多大な金額をキャッシュで前レーベルに払い、すぐに同社のプロジェクトチームが動き始めた。この時、同社が金銭的な部分を含めて助力を惜しまなかったことが、後の矢沢との信頼関係や、あるいは矢沢のキャリア形成につながった。キャロル解散後は、事前準備が身を結び、満を持してソロでの活動を始める。同時に、矢沢はキャロル関係の人間から離れ、一切のスタッフを総入れ替えした。CBSソニーに移籍後、同年ロサンゼルス録音による『I LOVE YOU, OK』でソロデビュー。以降日の出の勢いで急成長し、2年後の1977年には日本のロック・ソロアーティストとしては初の日本武道館|武道館単独公演、翌1978年には『時間よとまれ』で人気が爆発し、後楽園球場(現東京ドーム)単独公演、自伝の出版やドキュメンタリー映画『RUN&RUN』公開と日本のロック界においてスーパー・スターの地位を確立する。
ソロ・黄金期
1980年代に入ると矢沢は黄金期を迎え、売り上げ・動員数共にロックスターとしての地位を磐石にする。長者番付歌手部門第1位を獲得、スーパースターとして日本ロック界の頂点を極めた矢沢は、「世界」のYAZAWAとして次なる目標を世界制覇に定める。1980年にワーナーミュージック・ジャパン|ワーナーパイオニアに移籍。海外市場に活路を求めアメリカ西海岸に活動の拠点を移し、現地のプロデューサーやドゥービー・ブラザーズなどのミュージシャンを起用したアルバムを何作か世界・全米発売。果敢に世界制覇に挑み、いずれも商業的な成功はしていないものの、コンピューターを駆使した洋楽テイスト満載の、質の高い作品を追求し発表する。
* 1980年
*: 米国ワーナーブラザーズに移籍。
* 1981年
*: 単身渡米し、エレクトラアサイラム・レコードと契約。
*: 9月25日、全曲英語詞アルバム『YAZAWA』が全世界発売。以後主なる活動拠点をロサンゼルスに定める。
* 1982年
*: 2月10日 アルバム『YAZAWA It's Just Rock'n Roll 」全米発売。シングル『ROCKIN' MY HEART』がジョージ・ハリソン・バリー・マニロウと共にビルボードに推薦曲として掲載される。
*: ドゥービー・ブラザーズのメンバーと共に''E.YAZAWA''として“来日”し、凱旋武道館ライブを果たす。
* 1987年
*: アルバム『FLASH IN JAPAN』全米発売。MTVスタッフによるプロモーションビデオ|PV製作。
* 1988年
*: アルバム『共犯者』ロンドンレコーディング。
*: 東芝EMIに移籍。国内を重視した活動になり、さらに完成度を増し円熟期に入る。
その後の音楽活動・世界での音楽活動
* 1995年 ベストアルバム『BIG BEAT』香港発売。
* 1997年
*: ウェンブリ−スタジアム(英国ロンドン)で行われた世界ロック大会「songs and visions」にアジア代表として出演し、ロッド・スチュアート、ボン・ジョビ、ロバート・パーマー等と競演。世界60ヶ国に放映されるが、ロッドからは「矢沢? 知らないね」とコメントされるなど散々な姿が映し出される。しかし、最終的にはロッドに歌唱力を認められ、ロンドン市民・共演者からも賞賛を浴びる。この模様をNHKがドキュメント番組『Do You Know YAZAWA?』として制作、放送した。
*: オーストリア首都の音楽の都ウィーンにてゲリラライブ敢行。
* 1999年
*: 9.15 横浜国際総合競技場にて50歳バースデーライブ「TONIGHT THE NIGHT! ありがとうが爆発する夜」開催。
*: 10月 世界最大のヨットレース「アメリカズカップ」のテーマソングを担当。
*: アメリカツアー敢行。(ホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ)
* 2000年
*: ナラダ・マイケルウォールデンプロデュースのチャリティ・クリスマスアルバム『music of love〜for tomorrow's children〜』にスティービー・ワンダー、スティング、エンヤ等と参加。
*: 前年同様アメリカツアーを行う。(サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク)
* 2001年 FMフェスティバル'01テーマソング『この道の向こうに』を担当。(楽曲そのものは現在まで未発表)
* 2003年 ディズニーアニメ『ピノキオ』の主題歌『星に願いを(ディズニーソング)|星に願いを』を担当し、東京ディズニーシーにてゲリラライブを行う。ディズニー社より表彰を受ける。
* 2004年 横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)と大阪ドームで行われたPOCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004|ロック・オデッセイに、エアロスミス、ザ・フー、ブラック・アイド・ピーズ、レニー・クラヴィッツ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズと共に参加。大トリを務める。
* 2005年 ソロデビュー30周年を迎え、原点回帰すべく毎年恒例の武道館公演を封印し、ライブハウスのみでツアーを行う。
* 2006年
*: 8月6日ROCK IN JAPAN FESTIVAL出演。あまり矢沢を知らない世代にロックの原点を伝える素晴らしいライブとなった。
*: 10月20日より武道館5回公演を含む全34公演の全国コンサートツアー(NEW STANDARD 〜Rock Opera 2〜)開催予定。後楽園球場をはじめ、ナゴヤ球場、横浜スタジアム、東京ドーム、真駒内オープンスタジアム(札幌)、海の中道海浜公園(福岡)、阪急西宮スタジアム、福岡ドーム、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)、東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム(現味の素スタジアム)、ウェンブリ−スタジアム(ロンドン)、大阪ドーム等の大規模会場公演も数多い。
様々な事件・騒動
* 山中湖の自宅を取り壊す。
:山中湖に建てた自宅が女性週刊誌に取り上げられ、熱狂的なファンが連日連夜訪れ大騒ぎとなる。引越し後空き家となった住居に一部のファンが侵入するほどエスカレートした為、自宅を取り壊す事となる。
* マネージャーによるコンサート売り上げ詐欺事件。
* そっくりさんによる3億円コマーシャル|CM裁判騒動。
* オーストラリアにおける事務所元側近による巨額横領罪|横領事件。
:土地取引を巡り、30億円という巨額の経済事件となった。これはオーストラリア犯罪史上2番目の被害額である。
* サントリー「BOSS」CM自粛騒動。
:サントリー「BOSS」CM中の台詞「夏だからってどこか行こうってのやめましょうよ…何処行ったって夏なんですから…」に、長野県の旅館経営者が抗議。このCMは自粛となったが、次回のCMでは台詞が「冗談じゃねえよ」となった。
* 桑田佳祐による「祭りのあと (桑田佳祐)#すべての歌に懺悔しな!!による論争|すべての歌に懺悔しな!!」騒動。
:1994年に桑田が発表した楽曲「すべての歌に懺悔しな!!」の歌詞をめぐり、マスコミによって長渕剛とともに桑田に揶揄された当事者とされたが、激怒した長渕と対照的に「俺は全く気にしていない。それより桑田君のほうは大丈夫か?」と冷静に桑田を気遣った。
上述のような様々な逆境に見舞われるものの、CMやTVドラマに数多く出演、また主演映画公開など新分野に挑戦。2005年までに全ての借金を返済し、東京赤坂に5階建てのスタジオを建設するまでに至る。本人曰く、「また新たなローンができてしまった」。

